東京国立博物館「王羲之展」1月22日(火)〜3月3日(日)

高校の書道の時間に蘭亭序の臨書をさせられて、もちろんそれは惨憺たる結果に終わったのだけれど、その時に王羲之は「書聖」といわれているということと、だけど直筆は一点も残っていない、昔の人々が作った複製だけが残っている、という話を聞いて、ナンダソレハと思ったことがあった。複製は字の輪郭を取って、そこを塗りつぶすというもの(双鉤填墨)で、たしかそれも実践してみたような気もする。覚えていないけれど、もちろん惨めなものが出来たことでしょう。
王羲之の由緒正しき「複製」の諸本が出ている展覧会。その複製自体が非常に高い価値を持つ。絵よりもたぶん厳しくブレを許さない「正確」な複製を作ること、求めることの執念を思った。書聖の息遣いを伝えるために職人が息を殺して作る。あと石碑って碑を直接見るというよりは、拓本を取るために作られたのだろうか。少なくとも王羲之関係では丈夫な版という使われ方をしているようだった。おもしろいな。
そうそう、行ってみたら「席上揮毫会をやっています」とあったので人垣の後ろから懸命に覗いた。有名な書道家の先生方らしき人が書いていた。それほどパフォーマンス然としていなくて、わりと淡々と、種本を眺めながら、たぶんふつうに大作を制作するときと変わらないんじゃないだろうか。見る人は自分が書く時を思い出しつつ、運筆の呼吸や力の入れ具合を感じながら見る。筆が力を吸収して、紙には割合間接的に力が届くものなんだなあと思った。もちろん去年みたジャクソン・ポロックのビデオを思い出す。